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『女王陛下のお気に入り』の背後:アン女王、サラ・マールバラ、アビゲイルの歴史が紡ぐ3つの運命

2024-03-21

映画『女王陛下のお気に入り』は、アン女王の宮廷で繰り広げられた3人の女性の駆け引きが中心に描かれています。

登場する3人は全員実在の人物で、歴史的事実がもとになっています。

そしてさらに映画を面白くしているのは、当時のイギリスの政治やフランスとの戦争という重要課題が、女性同士の微妙な心の揺れ動きや、野心などによって男たちが取り仕切る外の世界のことが動かされていくのがコメディータッチで描かれているところ。

実在の人物、歴史的事実などが主軸になっているけれど、その周りにつけられたイメージによって物語が面白くなっている。

子供を17人も失ったというアン王女はどんな人だったのか?
アン王女の寵愛を受けて公爵夫人まで上り詰めたサラ・マールバラはどんな生涯を送ったのか?
サラを退けて没落貴族から までなったアビゲイルは?

3人の登場人物像に、肖像画や歴史的資料から探ってみましょう!

アン女王 Queen Ann(1665-1714)


https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Willem_Wissing_and_Jan_van_der_Vaardt_-_Queen_Anne,_when_Princess_of_Denmark,_1665_%E2%80%93_1714_-_Google_Art_Project.jpg

女王になるまで

ジェームス2世と王妃アン・ハイドの娘として1665年にセントジェームス宮殿で生まれる。

ここがなかなか複雑なのですが、父ジェームズ2世は1688年にプロテスタントの娘メアリーと夫ウィリアムによって退位させられます。オランダから軍を率いてイングランドに上陸した彼らから逃げるようにジェームス2世はフランスへ亡命します。

共同統治していたウィリアム3世(William III)とメアリー2世(Mary II)が子供がなく亡くなったのでアンが王位を継ぐことになったのです。

1702年に義兄のウィリアム3世から王位を受け継ぎ、そこから1714年までの12年間王位につきます。

女王として

アン女王(Queen Anne)は、非常に心優しい性格で知られていましたが、健康問題にも常に悩まされていました。多くの流産や早世した子供たちという個人的な悲しみに直面しながらも、国を治める重責を担っていました。

最も注目すべき出来事の一つが、1707年の「合同法」(Acts of Union)の成立です。この法律により、イングランド(England)とスコットランド(Scotland)は、グレートブリテン王国(Kingdom of Great Britain)として一つに統合されました。イギリスの基礎を形成する重要な出来事となっています。

そして、スペイン継承戦争(War of the Spanish Succession)もありました。この戦争は、ヨーロッパの複数の大国がスペイン帝国の後継者問題を巡って争ったもので、アン女王はイギリスを率いて同盟国側に立って戦いました。その中の1704年ブレナムの戦い(Battle of Blenheim)はフランスとその同盟国に対してイギリスとその同盟国が大勝利を収めたもので、戦争の流れを変える決定的なものでした。1713年のユトレヒト条約(Treaty of Utrecht)によって戦争は終結し、イギリスは戦利品として重要な領土を獲得しました。

ブレナムの戦いで戦勝をあげたサラのご主人ジョン・マールバラは広大な土地と報奨金を受け取ってブレナムパレスを作るのですが、映画の中でも登場しているエピソードです。

また、国内政治でも大きな変動がありました。特に、ホイッグ党(Whigs)とトーリー党(Tories)の間の政治的対立は、彼女の治世を通じて続きました。アン女王は、この二つの党派間の緊張を和らげ、国を安定させるために多大な努力をしました。ここにサラとアビゲイルが後ろでアン女王を操っている様子がかなり露骨に出てきてしましたよね。

アン女王の子供たち

映画の中でも悲しそうに子供たちのことを語っていたアン女王。ジョージ・オブ・デンマーク(Prince George of Denmark)との間に17人の子供ができたのに無事に育ったのはウィリアムたった1人。彼も11歳の誕生日直前に亡くなってしまったというから悲劇ですよね。

アン女王は、1714年ケンジントン宮殿で1714年に亡くなり子供がいなかったため王位継承の問題を複雑にしました。彼女の死により、スチュアート朝(Stuart dynasty)は終わりを迎え、ハノーヴァー朝(House of Hanover)がイギリスの王座を継承しました。現在ウェストミンスターアビーのヘンリー7世祭室に埋葬されています。

  • 女児(1684年) - 死産
  • メアリー(1685年 - 1687年) - 天然痘で夭折
  • アン・ソフィア(1686年 - 1687年) - 天然痘で夭折
  • 流産(1687年)
  • 男児(1687年) - 死産
  • 流産(1688年)
  • ウィリアム(1689年 - 1700年) - 先天的に水頭症を患い、猩紅熱で夭折。
  • メアリー(1690年) - 生後すぐ夭折
  • ジョージ(1692年) - 生後すぐ夭折
  • 女児(1693年) - 死産
  • 流産(1694年)
  • 女児(1696年) - 死産
  • 流産(1696年)
  • 流産(1697年)
  • 流産(1697年)
  • 男児(1698年) - 死産
  • 男児(1700年) - 死産

レディ・モールバラ Sarah Jennings (1660-1744)


https://en.wikipedia.org/wiki/File:Sarah_Churchill_Duchess.jpg


男女の関係が乱れている中セアラはガードが固かった。ジョンに目をつけられたのは16歳の頃(ジョンは26歳)
お互いの手紙も残されいてセアラの拒否の内容は多い
2年にわたるプロポーズの結果。結婚することになる。
1678年10月1日結婚。
ジョンは王の弟ヨーク公に気に入られヨーク公の侍従そしてチャーチル男爵になった
チャールズ2世の後ヨーク公がジェームス2世として即位。

フリーマン夫人とモーリー夫人と呼び合う仲になるまで

映画の中で、泥バスに入った2人がフリーマン夫人(セアラ)、モーリー夫人(アン)とお互いを呼び合っていたの覚えていますか?

これは実際のことらしく、2人は本当に仲が良かったようです。

サラ・ジェニングス(のちのサラ・チャーチル、マールバラ公爵夫人)は、1660年生まれ。6歳で実の母アン・ハイドを亡くしていたアンの侍女として選ばれました。5歳上のサラは頭の回転も速く、行動力もあったようで、正反対のアンを幼い頃から支えていました。

幼い頃からの深い友情が、時には政治的な助言者ともなって、サラの影響力が宮廷内でどんどんと強くなっていったのです。

突然のアン女王の誕生で影響力を増していくサラとジョン・チャーチル

サラはジョン・チャーチルに16歳の頃気にいられて(ジョン26歳)、2年にわたるプロポーズを受けて結婚しました。

このしつこいくらいのプロポーズ作戦は、のちのことを見越してではなかったようです。当時はアンが女王になるなど予想されていなかったからです。しかしジェームス2世がカソリックであるために国に受け入れられず廃位となり、姉のメアリーが女王に。そしてその夫のウィリアムとの共同統治。ウィリアム3世が1702年にハンプトン・コート宮殿で乗馬を楽しんでいたときに落馬をして、その怪我が元となり52歳で他界します。誰も予想していなかったあまりにも早い死去に、アンもサラも驚いたはずです。

こうやって自分を長い間支えてくれていたサラを側近の女官長に任命し、そして夫のジョン・チャーチルに最高勲章のガータ勲章を与え、外交軍事を任せることに。こうしてブレナムの戦いでの勝利により英国史において英雄とみなされました。

2人がどんどんと国政において重要な役割を果たすようになっていきました。

過剰なまでの高待遇!

ブレナムの戦いのジョン・チャーチルの功績にアンから与えられたのは、ウッドストックにある22000エーカーの地と巨大な館。22000エーカーとは成田空港の6倍の広さになるそうです。

そこに5000ポンドの年金の加算。

加算というのは、その前のオランダでの戦いの褒美に、貴族最高位の公爵を叙勲し、年金5000ポンドを与えていたからです。この年金は女王が在位中はずっともらえるのだそうです・・・・すごい。

さらに30万ポンドが支給され、与えられた土地にブレナム宮殿を建設することになりました。

このブレナムパレスは、1987年には世界遺産にも登録されていて、王室以外の建物で唯一宮殿という名前が付けられることが許されているのですよ。

アビゲイルとの対立で宮廷から遠ざかる

しかし、サラとアン女王の関係は徐々に悪化しました。二人の間の個人的な対立は、政治的な意見の違いと組み合わさり、最終的には彼女たちの友情の終焉を招きました。サラの強引な性格と、アン女王に対する時には尊大な態度が、関係をさらに悪化させたと言われています。

サラは特にホイッグ党を支持していたのですが、女王と意見が異なることが多かったため2人の間はギクシャクしてきます。また、この後に紹介するアビゲイルが宮廷に登場したことも、二人の関係の亀裂を深める一因となりました。

サラは最終的に宮廷から遠ざけられ、彼女の影響力は大きく減少しました。

アビゲイル・ヒル(Abigail Hill 出生年不明〜1734)

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Abigail_Masham_portrait.jpg

アン女王の女官になるまで

アビゲイルは、サラ・チャーチルのいとこ。サラは貧しい生活を送っていた彼女を引き取って養育し、女王の寝室係女官へと出世の道を作ります。

初めは目立たない存在だったアビゲイルですが、やがてアン女王との親密な関係を築き、サラに代わる重要な影響力を持つようになりました。

映画の中では控えめな人柄と、女王が必要としていた慰めと理解できたことが、アンの心を掴んでいく様子が描かれていました。サラの支配的で尊大な態度とは対照的。より親密な付き合いをしていましたよね。実際のところどうだったのかわかりませんが、やがてサラを凌ぐほどの影響力を宮廷内で持つようになったのは事実です。

サラに代わってアン女王に影響力を与えていく

アビゲイルが女王の寵愛を受けることになります。

サラほど政治的に活動的ではありませんでしたが、当然ですがアビゲイルの影響力が強くなるにつれ、アンとサラの関係が崩れていきます。3人の女性同士の友情、すれ違い、憎しみ、出世欲が、宮廷の政治にも影響を与えていきます。

さらに宮廷での地位を確立する上で重要な役割を果たしたのは、小貴族サミュエル・マシャム(Samuel Masham)と結婚です。サミュエルにとってもアビゲイルを通して政治的影響力を得るようになりました。

こうしてアビゲイルは、サラの夫のジョンや、ゴドルフィン伯の政敵だったトーリーの国務相のオックスフォード伯ロバートーハーリーと女王の間を取り持ちます。

1710年にゴドフィン伯は失脚、1711年12月31日はジョン・チャーチルは要職を解かれ、身の危険を感じ翌年大陸へ亡命しました。


アン女王の治世の3分の2をセアラ、3分の1をアビゲイルが動かしていたと言われるのはこのような出来事があったためです。

まとめ

アン女王、サラ・チャーチル、そしてアビゲイル・マシャムの三人の女性は、1700年代初頭のイギリス宮廷において、複雑な人間関係の網を形成していました。この三角関係は、当時の政治や社会に大きな影響を与え、今日でも多くの人々の興味を引き続けています。

映画『女王陛下のお気に入り』では、こうした史実に皮肉やユーモアをたっぷりと混ぜ込んで、3人の関係とその周りにいた人々を描いていました。美しいイギリスの自然や邸宅内で撮影された映画のロケ地についてもこちらの記事でたっぷりとご紹介しています!



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