リッチモンド宮殿。かつての英国王室の宮殿でした。
先日ロンドン在住の方が開催されているオンラインツアーに参加してこの宮殿の歴史に興味が湧きました。さらに調べてみるとなかなか面白い過去が!
今は残念ながらゲートハウスが残っているだけなのですが、かつてシーン離宮から自分のゆかりある名前に変更したのはヘンリー7世でした。そんなエピソードからも国王に愛されてきたことがわかります。
そして息子のヘンリー8世の時代には何だか曰くありげの場所にもなってきて・・・
イギリスの南西部リッチモンドには、他にもハンプトンコート宮殿、ウィンザー城などがあり、アクセスでも便利な歴史的に重要な場所だったのです。
宮殿の歴史やどのように愛されてきたのかを知ると、遺跡となってしまった現状にちょっと寂しい気持ちになってしまうかも。
歴史の舞台として光り輝いていた当時の姿を想像しながらリッチモンド宮殿の歴史を振り返ってみましょう。
▼ハム・ハウスもそのリッチモンド宮殿にとても近い場所にあるカントリーハウスです。
リッチモンド宮殿
この絵は、時代がわかりませんがテムズ川から見たリッチモンド宮殿の姿です。(オリジナルの絵を1765年に版画作品にしたものです)
リッチモンドは、ロンドンと、ハンプトン・コートとの間の中間地点、テムズ川添いにあります。現在ではキュー・ガーデンやリッチモンド公園などで知られているが、かつては王室の狩り場であり、また壮麗な宮殿が存在していた。それがリッチモンド宮殿です。
かつてはSheen(シーン)と呼ばれる土地でそこに建つ宮殿のためシーン離宮とされていた場所が、火災のため無くなったのを立て直したのがヘンリー7世です。彼は自分の爵位のリッチモンド伯からこの場所をRichmond(リッチモンド)に変えて、新しくなった宮殿を、リッチモンド宮殿にしたのです。
ここから歴史を見ていきましょう。
シーン離宮の始まり
シーン荘園という地はもともとヘンリー1世によってキングストンの王室荘園から分割され、ノルマンの騎士に与えられました。キングストンの王室荘園(Royal Manor of Kingston)は、中世のイングランドにおいて王室が所有していた土地の一つです。
その後エドワード2世の治世に再び王室の手に戻りました。
この場所にあった古い荘館を拡張、豪華な応援室や台所が増築したのがエドワード3世(Edward III 1327-1377年)です。1377年にここで息を引き取るまで彼が使っていた場所です。
王と王妃の愛した夏の離宮
エドワード3世の後継者の孫にあたるリチャード2世(Richard II 1377-1399)は王位についた時まだ少年でした。10代での政略結婚だったのですが、王妃アン・オブ・ボヘミアとの仲はやがて深い愛情に変わる関係となりました。
2人はこの場所を夏の離宮として宴を催すというお気に入りの住まいへ。宴の規模は、毎日一万人の客をもてなすほどの賑わいだったとか。
しかし、アンがペストでこの宮殿で亡くなると、リチャード2世は深い悲しみの中で宮殿を取り壊すよう命じます・・・
取り壊しはしたものの一部兵士や召使の住居として残されました。
ヘンリー世代の改修と拡張
ヘンリー5世(Henry V 1413-1422年)は、壊された宮殿を再建することを決意し、大規模な新しい城を目指しますが亡くなり工事はストップしてしまいます。
その後のヘンリー6世(Henry VI 1422-1461年、1470-1471年)は、わずか8歳で戴冠したため、評議会は建築作業の再開を決めました。王妃マーガレット・オブ・アンジューと宮殿を謁見の場として使っていました。それは離宮としての別荘のような場所ではなく、王室の公的な行事や重要な会議の場として利用していたことを意味しています。
さらにその後のエドワード四世(Edward IV 1461-1470 1471-1483年)とエリザベス・ウッドヴィルの時代には、馬上槍試合や武芸競技大会も開催され、宮殿は王族の娯楽の場ともなっていきます。
ヘンリー7世の建設とリッチモンド宮殿へ
ヘンリー7世(Henry VII 1485年 - 1509年)はこのシーン離宮をどこよりも愛した国王でした。1492年には庭で1ヶ月も続く盛大な武芸競技会を開催。こんなに長期間なんてなんだかオリンピックのような大会ですね。
2人の息子のアーサーとヘンリー(のちのヘンリー8世)もこの場所で育てられました。
当時の公式宮殿はウェストミンスター宮殿でしたが、ロンドンの中心地にある場所よりもゆっくりしたいという場所でリッチモンド宮殿は最適だったのですね。宮廷人も宮殿の近くに家を建てていくためリッチモンドもどんどんと栄えていきます。
しかし宮殿は1497年のクリスマスに火事で焼け落ち、再建することを決意。新しい宮殿はヘンリー5世と6世の基本設計を引き継いだのです。テムズ川沿いは15世紀の外観を保ち、白石で建てられ八角系や円形の塔がたくさんありました。
ヘンリー7世はシーン宮殿からリッチモンド宮殿という名前にした人物ですが、そこにはこの宮殿を大切にしていたことがわかるエピソードがあるのです!ヘンリーは、王位に就く前に持っていたリッチモンド伯の爵位と宮殿につながりを持たせる意味を込めたのです。
「Richmond」という名前は、フランス語の「riche mont」に由来していて、「豊かな丘」または「美しい丘」という意味を持っています。イングランド北部ヨークシャーのリッチモンドは、1066年のノルマン征服後にノルマンの貴族によって建設されたリッチモンド城の周りに発展した町。ロンドンのリッチモンドも「豊かな丘」または「美しい丘」という意味を持つ名前を受け継ぐこともなったのです。
しばらくの間、リッチモンド宮殿は重要なイベントの場所になっていきます。
1501年には、アーサー王子とキャサリンの結婚式後のお祝いがロンドンからリッチモンドへと移され、1503年にはマーガレット王女とスコットランド王ジェームズの正式な婚約式が行われました。
1509年、ヘンリー7世は自らが建てた宮殿で亡くなりました。
王族による宮殿の利用とその遺産
ヘンリー7世の皇太子アーサーが亡くなり未亡人となったキャサリン・オブ・アラゴンは、ヘンリー8世(Henry VIII 1509-1547年)と結婚するまでリッチモンド宮殿に住んでいました。
ヘンリー8世は速やかにキャサリンと結婚し、1510年にはキャサリンが再びリッチモンドに戻りヘンリーという息子を出産しました。洗礼式では大規模なお祝いが行われましたが、彼は1か月後に亡くなりました。
王の主席大臣であるウルジー枢機卿はハンプトン・コート宮殿を建設し、それがリッチモンド宮殿を凌駕するほど!ウルジーがキャサリンとの速やかな離婚を取り付けることができなかったため、ハンプトン・コートを王に渡すことに決めます。その後ハンプトン・コートの改築が始まりこちらが国王のメイン宮殿へとなっていきます。
リッチモンドはその後、見捨てられた王妃たちの住まいとなりました。
最初はキャサリンと彼女の娘メアリーが住み、ヘンリーがアン・ブーリンと結婚する間、その場所を提供されました。
さらに4番目の妃から離縁されたアン・オブ・クレーヴズが宮殿を与えられました。
ヘンリー8世の死後、息子エドワード6世(Edward VI 1547-1553年)(王妃ジェーン・シーモアの子供)もこの宮殿を使用し、姉のメアリー(王妃キャサリンとの子供)とエリザベス(王妃アン・ブーリンとの子供)をもてなしていました。
メアリー1世(Mary I 1553-1558年)は女王になった際、スペインのフェリペとのハネムーンにこの宮殿を使っています。
エリザベス1世(Elizabeth I 1558-1603年)は治世の後半夏を過ごしにやってくるようになり、さらに1603年病気になった時に占星術師の忠告に従ってリッチモンド宮殿を選びました。しかしそれから数週間後に亡くなってしまいます。
画像はちょうどこの時代のオランダの画家の絵を元に作られた複製。左奥の方に宮殿が見えてます。
宮殿の終焉
やがて17世紀に入り、宮殿は動乱に巻き込まれていきます。
エリザベス1世の死後、ジェイムス1世(James I 1603-1625年)は当初リッチモンド宮殿を放置していました。しかし、後に彼は宮殿を皇太子ヘンリーに与え、彼のために絵画や彫刻のコレクションを展示するためのギャラリーを建設しました。
ヘンリー王子の死後、宮殿はチャールズ王子に引き継がれ、彼はここを狩猟の拠点として利用し始めます。チャールズの結婚を機に、宮殿は彼の妻であるアンリエッタ・マリア王妃へと贈られましたが、後に彼らの息子チャールズへと移りました。
1649年、ピューリタン革命でチャールズ1世(Charles I 1625-1649年)が処刑されると、リッチモンド宮殿は国内のほとんどの王室不動産と一緒に売却されてしまいます。購入者たちは建物を分割していきました。外側の煉瓦作りの建物は残りましたが、礼拝堂、大広間、プライベートロッジの石造りの建物は解体され石材までも売却。
王政復古に伴い、チャールズ2世(Charles II 1660-1685年)がフランスから帰国した際には、ほとんどが残っていない状態。
1669年にヨーク公(のちのジェームズ2世(James II 1685-1688年)の所有となり、クリストファー・レンによる改修を計画しましたが、1689年の廃位と退位によって作業は終了してしまいます。
18世紀には宮殿は荒れ果てた土地となってしまいました。
リッチモンド宮殿の現在の姿
現在、ヘンリー7世が手がけた宮殿の名残は、唯一赤レンガ造りの楼門だけ。アートの上に見えるのは復元されたヘンリー7世の紋章「盾を支える赤いドラゴンとグレー・ハウンド」が飾られています。